みんなのふるさとこぼれ話98 中学生が出会ったヒロシマ 被爆教師 中本剛

昭和50年(1975)に七生中学校が都内初の広島方面修学旅行に行ってから8年後の昭和58年(1983)に日野第四中学校、その4年後の昭和62年(1987)に大坂上中学校が2回目の広島方面修学旅行に行き、その時、現地で生徒たちに話をしてくれた被爆者が中本剛氏でした。
中本氏は荒神町国民学校(広島市南区)の教諭で、原爆投下時には児童と疎開先の久地(くち)村(現広島市安佐北区)にいましたが、8日に広島市内に入ったため入市被爆※1しました。
荒神町小学校は倒壊しましたが校舎は焼けなかったので、教師たちが講堂の部材を使って4つの教室を急拵(きゅうごしら)えしました。その頃近くの土堤には食料・衣料を売る小屋が建ち、その中にあった貸本屋の店主が原爆詩人・活動家であった峠三吉でした。峠と知り合いになり、感化された中本は、「広島青年文化連盟」に入りました。連盟は、大村英幸(広島県福山市出身、旧制広島文理科大学学生)を中心に、社会人の峠三吉も加わり、戦後いち早く被爆地広島の状況を伝える活動を始めた組織でした。昭和21年2月、連盟はじめての講演会で講演したのが社会運動家・作家であった山代巴(広島県府中市出身)※2で、会場の荒神町小学校で山代を迎えたのは中本教諭でした。これが講演後に握手を求めてきた峠三吉と山代の出会いとなり、昭和27年9月、峠三吉と山代巴を中心とした原爆の詩編纂委員会が編纂した詩集『原子雲の下より』(青木書店)の出版につながりました。
広島市民による初めての核兵器廃絶宣言がなされた昭和24年10月2日の平和擁護広島大会では、中本教諭が作文指導していた段原小学校(広島市南区)5年生の作文「戦争はひもじい」が読まれ、会場全体が感動に包まれました。1951年刊行の長田新編集『原爆の子』(岩波書店)につながる先駆的な仕事でした。被爆者運動の黎明期を支えた大村英幸・峠三吉・山代巴らと交流のあった中本剛。市域の生徒がかつて出会った被爆者は、そのような歴史を背負った人物でした。現地で被爆者から聞く話は生徒たちの心に深く刻まれました。令和8年12月13日(日曜日)まで郷土資料館で「中学生がであったヒロシマ」展を開催しています。ぜひご覧ください。
※1原爆投下後、家族の捜索や救援のため一定期間内に被爆地に入り、残留放射線を浴びたことによる被爆。
※2山代は昭和43年~平成8年まで多摩平団地に居住し、その後、杉並区に転居し平成16年11月に92歳で亡くなりました。
広報ひの 令和8年(2026)9月号 掲載
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