みんなのふるさとこぼれ話75 金丸四郎兵衛の墓
正徳4年(1714)徳川家継の生母月光院に仕える絵(え)島(じま)が、増上寺の代参の帰りに芝居見物に行き、役者の生島(いくしま)新五郎を招いて酒宴を開き、大奥の門限を破って処罰された「絵島生島事件」が起きました。絵島は高遠藩に配流となり、他にも多数の処罰者を出した中、代官金丸(かなまる)四郎兵衛定曹(さだとも)も連座して追放刑となりました。
3年後の享保2年(1717)7月21日、日野宿の臨済宗宝泉寺に立ち寄り本堂で休んだ一人の武士がいました。住職が目を離したすきに、その武士は本堂の裏にある唐(とう)の芋(里芋の一種)畑で切腹して死んでしまいました。後からその武士が金丸四郎兵衛だと分かり、住職は宝泉寺に葬り墓を作りました。
宝泉寺の過去帳には「定曹院載斉道流居士 享保二年七月二十一日 金丸四郎兵衛定曹 字 林佐忠」と記されています。林佐忠(左中とも書く)は四郎兵衛の変名です。
金丸四郎兵衛は追放後、八王子に住んでいましたが、ひそかに江戸に来て人を殺し、市谷の長龍寺で自殺しようとしていたところを、実兄の多門(おかど)弥左衛門正豊のはからいで八王子へ送り返されました。しかし八王子にいた姉に金の無心を断られ、自首するよう促されたため、江戸に戻る途中、宝泉寺で切腹したとのことでした。
この件で、四郎兵衛の兄多門正豊は四郎兵衛を八王子へ向かわせた罪で閉門となり、四郎兵衛の娘を後妻にしていた高橋彦八郎は、四郎兵衛を居宅に匿った罪で改易処分となりました。多門正豊は、忠臣蔵に登場する多門伝八郎重共の親戚です。
宝泉寺の檀家の間には、侍のたたりがあるので唐の芋を作らない、とか、金丸の墓をなでると病が治る、などの俗信が伝えられています。
広報ひの 令和6年(2024)7月号 掲載
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