みんなのふるさとこぼれ話84 日野宿に泊まった修験の僧、野田泉光院

泉光院野田成亮(せんこういんのだしげすけ)は、当山派(真言宗、本山醍醐寺)の修験僧で、日向国佐土原(さどわら 宮崎市佐土原町)にあった安宮寺の住職でした。
泉光院は、文化9年(1812)9月3日、57歳の時に回国の旅に出立しました。その旅は、文政元年(1818)11月7日に帰国するまで6年2カ月に及ぶもので、鹿児島から秋田に至る各地を歩いています。斎藤平四郎という従者との二人旅でした。泉光院は、この旅の間ほとんど1日も欠かさず日記を記し、「大日本九峰修行記(だいにほんきゅうぶしゅぎょうき)」として本山醍醐寺三宝院に納めたので、現在もこの旅の様子を知ることが出来ます。九峰とは、英彦山・石槌山・箕面山・金剛山・大峯山・熊野山・富士山・羽黒山・湯殿山を指します。
泉光院は、文武に優れた位の高い山伏だったので、各地の富裕な文人の家などに引き留められたり、祈祷や護符を依頼されたりすることもありましたが、基本は質素な托鉢の旅でした。日記には、出会った人、一夜の宿を乞うた家のこと、各地の風物などが丹念に記されていて、江戸時代文化文政期の、特に名所でもない日本各地の様子を知ることが出来る貴重な記録です。
旅に出て4年目の文化13年(1816)、泉光院は甲府城下で正月を迎えました。「甲州は富士より明くる初日哉」と句を詠み、城下の正月の様子が詳しく記されています。
天目山、柏尾山(甲州市勝沼町)から郡内に入り、猿橋(大月市)、小原宿(相模原市)を経て、2月9日小仏峠に着きましたが大雪で難渋、10日にようやく駒木野関所(八王子市)を通り日野宿に宿泊しました。
各地の文物を丹念に記している泉光院ですが、残念ながら「日野という駅に宿す」という記述しかありません。翌11日に日野を出立し、辰の上刻(午前7時~7時40分)に国分寺に詣で納経したとありますから、日野を出立したのは早朝だったことでしょう。
日野宿には、本陣・脇本陣のほかに旅籠が20軒ほどありましたが、托鉢僧の泉光院は民家に宿泊したのかもしれません。日野の渡しを渡ったので、風光明媚な場所として有名だった渡船場からの富士山を眺めたのではないでしょうか。府中六所宮(大國魂神社)を経て石原宿(調布市)に泊まり、12日に江戸新宿に到着しています。江戸には3月まで滞在し、その後秩父へ向かい、さらに旅を続けています。
健脚だった泉光院は、旅の間も渡船以外に乗り物に乗ることはなく、天保6年(1835)に80歳の長寿を全うしました。「大日本九峰修行日記」は、『日本庶民生活史料集成』第2巻に収められているので、全文を読むことが出来ます。
広報ひの 令和7年(2025)5月号 掲載
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