みんなのふるさとこぼれ話80 日野市と紫波町、源氏が結ぶつながり
平成29年(2017)に姉妹都市盟約を結んだ日野市と岩手県紫波町ですが、きっかけとなったのは紫波町出身で昭和23年(1948)に日野市に移り住んだ童謡詩人巽聖歌の存在でした。
しかし、巽聖歌が日野に来る900年近く前に、日野市と紫波町をつなげる出来事がありました。
康平5年(1062)、陸奥守に再任された源頼義が、陸奥国(岩手県)の豪族安倍氏を討伐するために奥州に向かう途中、日野市百草の地にあった八幡宮(百草八幡神社)に立ち寄り、戦勝を祈願したと伝えられています。後に「前九年の合戦」といわれる戦いですが、百草八幡神社に伝来している「武州多摩郡百草村正八幡宮伝紀」にこのことが記されています。江戸時代には、頼義が埋めたとされる石清水(いわしみず)八幡宮(京都府八幡市)の土の入った磁器が神社の後所から掘り出されたともあります。
紫波町にある「陣ケ丘(じんがおか)」という場所は、前九年の合戦のとき源頼義・義家親子が陣を置いた場所で、近くには、源氏の旗印の太陽と三日月がきれいに映るのを見て吉兆を喜んだと伝えられる「日の輪・月の輪形」池跡もあります。また、志和稲荷神社は、戦勝を祈願して頼義・義家親子が創建した神社で、樹齢1200年と言われるご神木の杉の巨木があります。
それから百余年後の文治5年(1189)には、奥州藤原氏征伐に向かった源頼朝が、陣ケ丘にある「蜂神社(八幡宮)」に討伐の陣を構え、藤原氏四代泰衡の首実検(討ち取った敵方の首が誰のものであるかを確認すること)を行ないました。前九年の合戦ゆかりの地に頼朝が陣を構えたのは、頼義・義家を先祖とする頼朝が、源氏の棟梁としての自らの正統性を広く奥州の人々に示す目的があったと言われています。
また、この時平泉衣川で最期を迎えた源義経は、かつて藤原三代秀衡の庇護を受けて養育されましたが、その場所が紫波町赤沢で、今も義経神社があります。
一方、日野市程久保には、義経が奥州に向かった時に隠れたという「かくれ穴」の伝説があります。現在は埋められてしまいましたが、数メートルの深さのある大きな穴が存在し、その場所が「かくれ穴公園」となっています。
かつて、都から奥州へ向かう途中に、日野の地に立ち寄った源氏の人々がいたことは、大変興味深いことだと思います。また、その目的地であった紫波町と姉妹都市となり交流を深めていることには、不思議な縁を感じさせられます。
紫波町は、奥州藤原氏の一族である「樋爪(ひづめ)氏」の居館があったところで、藤原氏・源氏のゆかりの場所が数多く残されています。自然も歴史もとても豊かな紫波町を、ぜひ訪れてみて下さい。
広報ひの 令和6年(2024)12月号 掲載
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