みんなのふるさとこぼれ話71 高麗弥助とチチノキの仲間たち

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ページID1025265  更新日 令和5年12月26日

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高麗弥助の写真
多胡羊歯『くらら咲く頃』出版祝賀会(昭和7年11月19日)
後列右から2人目が高麗彌助、3人目が新美南吉。2列目左端が巽聖歌。前列右から2人目が北原白秋、4人目が鈴木三重吉。

高麗彌助は由木村(八王子市)の出身で、戦前から多摩地域の尋常高等小学校で訓導(くんどう)(教員)をしていました。特に、児童自由詩(児童が書く自由律の詩)や生活綴方(つづりかた)(生活の中で見て感じたことや考えたことを作文にする)の指導に熱心に取り組んでいました。昭和15(1940)~16年頃に日野尋常高等小学校の教員をしており、昭和24年に豊田小学校の校歌「希望の光」を、昭和27年に日野第三小学校の校歌を作詩(作詞)しています。

教員をしながら自らも創作活動に励み、昭和6年から8年にかけての児童雑誌『赤い鳥』には、高麗彌助が投稿した詩や童話が掲載されています。同じ頃、新美南吉(にいみなんきち)も投稿の常連でよきライバルでした。彌助はまた、昭和5年に巽聖歌(たつみせいか)や與田凖一(よだじゅんいち)らが創刊した童謡雑誌『チチノキ』(昭和10年に19冊で終刊)の同人でもありました。

昭和6年7月以前、同人になりたての頃、チチノキ社の例会に出て来た高麗彌助が「さっきから野村さん野村さんって言ってるが、野村って一体、誰ですか?」と尋ねました。巽聖歌の本名が野村七蔵であることを知らなかったのです。「コマ(高麗)ッタ彌助だ」とからかわれていますが、翌7年1月、巽聖歌の初の童謡集『雪と驢馬(ろば)』出版祝賀会には、彌助も出席するなど親しくしていました。彌助はチチノキの仲間を「御飯を食べながらも黙っていられない連中だから愉快である。」と評しています。

広報ひの 令和6年(2024)1月号 掲載

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