みんなのふるさとこぼれ話67 久留米に行った巽聖歌

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ページID1024446  更新日 令和5年8月30日

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みんなのふるさとこぼれ話67 

久留米に行った巽聖歌

久留米時代の巽聖歌の写真
久留米時代の巽聖歌

 今年没後50年を迎えた童謡詩人巽聖歌は、昭和2年(1927)3月、ふるさと日詰(岩手県紫波町)から遠く離れた福岡県久留米市へ行くことになりました。22歳の時です。

 20歳だった大正14年(1925)4月、聖歌は東京での編集者としての仕事がうまく行かず帰郷、日詰で銀行員として働いていました。

 同じ年、『赤い鳥』10月号に代表作となる「水口」が掲載され、選者である北原白秋に絶賛されるという童謡詩人として華々しいデビューを果たした聖歌でしたが、再度の上京の見込みも、詩人として独り立ちするあてもなにもありませんでした。

 日詰教会へは、一番仲の良かった姉のふじと一緒に通っていて、このころ洗礼を受けました。また、盛岡へ通って英語の勉強もしていました。

 日詰教会に赴任し、巽聖歌と親しくしていた佐波内(さわない)哲三牧師が久留米教会に転任することになった時、聖歌は一緒に久留米に行かないかと誘われ、同行する決心をしたのです。

 得意の英語を生かして、アメリカ人宣教師の子弟の家庭教師をしてはという誘いは、日詰で意に染まない銀行員をしているよりは魅力的な仕事に思えたのかもしれません。佐波内牧師には、後継者として聖職者になって欲しいという意向もあったようです。

 日詰から久留米までは長い旅路でしたが、東京で途中下車して、谷中天王寺(台東区)に住んでいた北原白秋を訪問、はじめての面談を果たしました。

 見知らぬ土地久留米は、『赤い鳥』を通して知己を得て、生涯の友となった与田凖一が住む瀬高町(福岡県みやま市)や、白秋の出身地柳川にも近く、4月には念願だった与田に会い、親しく交流するようになりました。

 久留米教会での仕事は、実際には子守のようなもので、聖歌は失望するのですが、与田をはじめとする『赤い鳥』の投稿仲間と共に、回覧雑誌『棕梠』を創刊し、創作活動の手をゆるめることはありませんでした。

 昭和3年、白秋は門下の優れた投稿者たちを選び「赤い鳥童謡会」を結成、聖歌や与田もメンバーに加えられました。8月、ようやく白秋の許しを得て与田と共に上京し、東京での創作活動を再開することになりました。

 佐波内牧師は、久留米在任中に新しい久留米教会を建設しましたが空襲で焼失、その後再建された久留米キリスト教会は、現在も同じ場所(久留米市西町)に存在しています。

 1年数か月の久留米での生活は、聖歌にどのような影響を与えたのでしょうか。広大な筑紫平野とゆったり流れる筑後川・矢部川の風景は、聖歌が今まで経験したことのない眺めだったことでしょう。このころ作られた「きりぎりす」(『赤い鳥』19巻4号掲載)という作品は、秋になって旅立っていくキリギリスに、はるばる福岡まで来た自身のすがたを重ね合わせているような作品です。

 みやま市立図書館にある「与田凖一記念館」には、書簡をはじめ巽聖歌関連の資料も多数あり、今年10月~12月に開催する「巽聖歌没後50年記念展」でも紹介する予定です。

広報ひの 令和5年(2023年)9月号 掲載 この記事は『広報ひの』より詳細な内容です

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