みんなのふるさとこぼれ話 82 歴史の宝庫、京王百草園

京王百草園(もぐさえん)は梅の名所として知られており、園内からは晴れた日に遠く筑波山まで望めるという景勝地です。また、平安時代末から現代に至るまでの歴史が折り重なっている歴史的にとても由緒ある場所でもあります。かつて、この地には大きな寺院が次々と建立されては廃寺となり、残念ながら現在では全くその姿をとどめていません。
最初に建てられたのは11世紀末の「真慈悲寺(しんじひじ)」という寺で、13世紀後半には総瓦葺(かわらぶき)の大きなお堂が立ち並ぶ鎌倉幕府の祈祷寺として発展しました。隣地にある百草八幡神社と共に武蔵国国府(こくふ)の重要な霊地だったのです。今から34年前に園内から出土した「蓮華唐草文(れんげからくさもん)軒平瓦(のきひらかわら)」が真慈悲寺を特定する証拠となりました。しかし、元弘3年(1333)の鎌倉幕府の滅亡とともに廃寺となります。
およそ370年後の元禄13年(1700)になると、この地を治めた領主小林正利によって枡井山(ますいさん)松連寺(しょうれんじ)や観音堂が建立されます。百草の地には小林氏関連の事柄がたくさん残されていますが、わずか14年後に廃寺となります。その3年後の享保2年(1717)には当時の老中大久保忠増の夫人寿昌院(じゅしょういん)によって慈岳山松連寺が建立されました。この寺は156年間にわたり長く法灯を伝えました。江戸市中から多くの文人墨客が訪れて賑わっていましたが、明治6年(1873)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のあおりを受けて廃寺となります。荒れ果てた跡地を再建したのは横浜で成功した地元の生糸商人青木角蔵でした。角蔵は跡地を買い取って整備し、明治20年(1887)に「百草園」として公開しました。京王帝都電鉄株式会社が百草園を買収したのは70年後の昭和32年(1957)のことです。
さて、平成元年(1989)の真慈悲寺の瓦発見から34年も経った令和5年(2023)、百草八幡神社拝殿の脇から新たなタイプの瓦「下向き剣頭文(けんとうもん)軒平瓦」が発見されました。相模地域に多く見られる鎌倉幕府の祈祷寺である真慈悲寺にふさわしい瓦です。今は地上にその痕跡を全く残していない歴史の貴重な証拠がまだまだこの地には残されているようです。
広報ひの 令和7年(2025)2月号 掲載
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