みんなのふるさとこぼれ話92 虚労散薬
日野本郷の下の名主、佐藤彦右衛門の家では「虚労散(きょろうさん)」という薬を代々製造販売していました。この薬は労咳(肺結核)=肺病や肋膜炎に効能があり、新選組の沖田総司も服用したと伝えられる家伝薬です。
この薬は、押立村(府中市)の川崎家から佐藤家へ嫁いだ女性によって製法を伝えられたという薬で、昭和10年代にはまだ製造販売されていました。押立村の川崎家とは、幕府代官の川崎平右衛門定孝を出した家で、佐藤俊興の父彦右衛門高富は定孝の甥に当たります(俊興の祖父平左衛門実富の妹が定孝に嫁ぐ)。川崎家でも同じような丸薬の家伝薬を製造販売していて、その薬は日野の佐藤家から教わったと伝えられているそうです。
文化6(1809)年に多摩川巡見で佐藤家に泊まった大田南畝は、彦右衛門とすっかり意気投合し、その後も家族ぐるみで親しく付き合っていました。大田南畝から佐藤彦右衛門宛てに出された手紙が残されています。
手紙は、23歳になる労症気味の娘のために日野宿の薬を求めたいという人がそちらへ行くのでよろしく頼む、と書かれています。「戌年卯月」、「江戸するが台 大田直次郎」とあるので、南畝が駿河台の屋敷に住んでいた戌年、つまり文化11(1814)年4月のことです。この手紙の尚々書き(追伸)には、彦右衛門が先日南畝の家を訪れたことや、いつも早々と帰ってしまうこと、御家内様へもよろしくなどの文言があり、彦右衛門と南畝が親しく交際していたことがうかがえます。ただし、この手紙の彦右衛門は俊興ではなく(俊興は文化8年没)、文化6年当時はまだ「庫太」と名乗っていた彦右衛門俊亮を指します。
また、日野宿の上の名主家でも薬の販売をしていたようです。薬の広告などを刷るための版木が複数あったことが分かっており、古くて汚い版木はおくど(かまど)へくべて燃やしてしまったといいますが、どんな内容だったのかとても興味深いです。
広報ひの 令和8年(2026)3月号 掲載
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