みんなのふるさとこぼれ話88 日野市役所にある「被爆の石」と増田勉「独語」

日野市役所1階守衛室の向かって右側にある「被爆の石」と、その上に掛けられた増田勉の油絵「独語」をご存じでしょうか?
「被爆の石」は旧広島市役所庁舎[昭和3年(1928)建設]の敷石で、広島へ原爆が投下された際、爆心地から1.2キロメートル地点で被爆したものです。昭和60年、広島市が市役所庁舎建替えの際、希望する自治体等に譲与したもので、昭和57年10月に「日野市核兵器廃絶・平和都市宣言」を制定した日野市は、これに手をあげました。
その上にある絵が、二科会の増田勉(1916―2007)の「独語」[1965年(昭和40)制作]です。
広島市立第一国民学校(現広島市立段原中学校)の教員をしていた増田は、建物疎開の作業中に爆心地から約1.5キロメートルの所で生徒と共に被爆し、多くの生徒を失いました。
増田の描く抽象画は、黒い雨や焦土をテーマにした、原爆への強い憤りを表現したものといわれています。
「独語」の黒い画面に目を凝らしてみると、そこには焦土の中の瓦礫と共に、誰のものともわからない骨や、石か骨かさえわからない何かが描かれています。そして目を凝らさないと見えなかったものが、逆に私たちに語りかけてくるのです。「語り続ける/石たちは/今もなお」(増田が「独語」によせた言葉より)。
昭和20年8月6日午前8時15分、広島市上空でさく裂した原子爆弾は、多くの人々の命を奪いました。
広島市の原爆についてのホームページによれば、その時の爆心地周辺の地表温度は摂氏3000度~4000度に達し、爆発の瞬間に生じた衝撃波は、爆心地から500メートルの所で1平方メートルあたり11トン、その後に起きた爆風は、爆心地から100メートルの地点で秒速約280メートルに達したと考えられています。そして今もなお、その時の放射線による健康被害が続いています。
原爆投下後の焦土と化した広島の画像を目にした方も多いのではと思います。増田の描いたものは、正に瓦礫の下にある、形さえ残らない名もなき人々のあまりにも無残な死に様です。
きのこ雲の下で起きていた核の地獄を私たちに伝えるものとして、これらは大変貴重なものといえます。市役所においでの際は、ぜひ見てください。
※令和7年(2025)10月19日(日曜日)まで、日野市郷土資料館で「明日に伝える戦争体験 戦後80年~平和をつなぐ」を開催
「広報ひの」令和7年(2025)9月号掲載「みんなのふるさとこぼれ話88」を、より詳しい内容で紹介するものです。
このページに関するお問い合わせ
教育部 郷土資料館
直通電話:042-592-0981
ファクス:042-594-1915
〒191-0042
東京都日野市程久保550
教育部郷土資料館へのお問い合わせは専用フォームをご利用ください。