みんなのふるさとこぼれ話87  弱き声を社会に届ける 山代巴『原爆に生きて 原爆被害者の手記』

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ページID1029361  更新日 令和7年8月14日

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 被爆者の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の2024年ノーベル平和賞受賞を祝ったメッセージの中に、初期の被爆者運動の担い手として峠三吉・川手健・山代巴に言及されているものがありました。

 峠三吉は、【序】「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながるにんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ」ではじまる『原爆詩集』の詩人です。またGHQによる言論統制下の昭和25年(1950)10月、丸木位里・赤松俊子夫妻(※1)が爆心地文化会館で行った「原爆の図三部作」展覧会の開催に尽力した人物としても知られています。昭和27年4月、体調に不安のあった峠は山代巴に協力を願い、同年9月に『詩集 原子雲の下より』を刊行しました(峠は昭和28年3月死亡)。

 続いて山代巴が「被爆者運動の先駆者」といわれる川手健と着手したのが「原爆被害者の手記」でした。構想自体は昭和24年8月からありましたが、適切な方法がみつからず、辿り着いたのが、被害者宅を直接訪問して話を聞き苦しみに寄り添う、弱くとも患者の言葉で訴えかける、弱き人々の声を社会に届ける、書けない人の代筆はするが本人の意向に沿わないことは一切書かないといった手法でした。このことが被爆者に生きる自信と社会性を持たせ、やがて日本被団協に先立つ被爆者組織「原爆被害者の会」が昭和27年8月に結成されました。昭和28年6月には『原爆に生きて 原爆被害者の手記』(カットは丸木位里・赤松俊子夫妻※2)が刊行されました。

 山代巴は昭和43年から平成8年(1996)まで日野市の多摩平団地に住み、その後、杉並区に転居して平成16年92歳で亡くなりました。現在も世界では戦争が起こり、戦後80年たった今も原爆症で苦しむ人々がいます。戦争は絶対ダメです。

※1原爆投下後、夫妻は丸木位里の実家のあった広島市へ駆けつけ、その惨状を目の当たりにし、その5年後に「原爆の図」が発表され。絵は全国を巡回し、原爆の被害を多くの人に伝えた。
※2山代巴と赤松俊子は、東京女子美術専門学校(女子美術大学)での親しい友人でもあった。
※みんなのふるさこぼれ話47「日野市に住んでいた作家山代巴」もご参照ください。

広報ひの 令和7年(2025)8月号 掲載

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