みんなのふるさとこぼれ話97 秋間為子と錦秋実用女学校

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ページID1031383  更新日 令和8年7月27日

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秋間為子の写真
秋間為子

 秋間為子(あきまためこ)は文久元年(1861)平山村の名主秋間善次郎の三女に生まれました。明治21年(1888)離婚をきっかけに、帝国大学医科大学の看護婦養成所の一回生として入学します。翌年卒業すると、鈴木雅(まさ)とともに派出看護婦会を開きました。その後独立して、本郷区元町(文京区本郷)に博愛看護学校を設立しました。

 明治27年(1894)7月に日清戦争が始まると、為子は従軍を志願し、日本赤十字社の篤志看護婦(ボランティア)となって広島で救護活動を行いました。後にこの功績により、勲八等宝冠章を受け、日赤の特別社員となりました。日露戦争時にも看護婦として広島へ従軍しました。

 しかし、為子はしだいに社会運動や女子教育へ注力していくようになります。明治35年(1902)に三多摩女子郷友会、明治38年(1905)7月に大日本婦人農芸会を設立し、自費で全国を遊説し、勤倹貯蓄などを推奨しました。さらに明治42年(1909)8月、七生村平山報徳会を設立して指導にあたると、青年たちが率先して加入し、やがて報徳会は七生村全体に広がりました。

 明治34年(1901)、本郷区元町に、東京に出て学ぶ女子のための寄宿学校「錦秋女塾」を設立しました。錦秋の名付け親は民権家の石阪昌孝(いしざかまさたか)です。明治42年(1909)には錦秋女塾を改め、錦秋実用女学校を設立しました。報徳会や女学校の設立には、高幡出身の代議士森久保作蔵らも関わっており、為子が地元でも一目置かれる存在であったことがわかります。

 為子はさらに大正元年(1912)10月、文部省の認可を得て、錦秋実科(じつか)高等女学校を設立しました。主として裁縫や家事などの家政に関する学科目を修める学校です。錦秋実用女学校とともに、それまでの元町から真砂町35番地に移転し、新校舎を建設しました(余談ですが、すぐ近所には元新選組隊士の斎藤一(はじめ)こと藤田五郎が住んでいました)。

 その後、時代に合わせて学校は何度か組織変更され、昭和2年(1927)に財団法人化もされました。

 昭和7年(1932)11月6日、為子は宗印寺にみずからの墓石を建て、生前葬を行いました。翌8年(1933)4月9日、73歳で亡くなりました。

 為子の作った学校は、戦後は錦秋学園高等学校となり、都市計画の影響を受け昭和49年(1974)に閉校しましたが、現在も学校法人錦秋学園として教育事業にたずさわっています。

広報ひの 令和8年(2026)8月号 掲載

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