みんなのふるさとこぼれ話48 昭和初期の伝染病隔離病舎

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ページID1017357  更新日 令和6年6月7日

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みんなのふるさとこぼれ話48

昭和初期の伝染病隔離病舎

図版キャプション
看護婦から町医の内山豊次郎へ、入院患者の薬の処方を頼む手紙(当館蔵)

 

明治30年(1897)4月1日、伝染病予防法が制定され(平成11年廃止)、各市町村に伝染病院または隔離病舎の設立が義務づけられました。

 日野町ではこの年8月から9月にかけて赤痢が流行し、河原に小屋を建てて患者を隔離しました。日野町と桑田村は、10月27日付で共同の伝染病隔離病舎の設置を東京府に願い出て、翌々日に認可されました。隔離病舎は、川辺堀之内字中大久保810番、以前に市立病院があった場所に建てられました。周囲は山林と畑のみで、人家はありませんでした。

 その後、昭和8年(1933)7月の『日野町郷土記』という記録の中に、日野町の隔離病舎について次のように書かれています。

「木造トタン葺きの平屋約120坪、14室あり、収容人数は23人。患者が発生すると、ただちに役場からの指示で収容され手当てされる。医師は町医が出張診療を行い、看護婦は八王子看護婦会から派遣される。留守居2人が常にクレゾールと石灰で消毒をする。患者が死亡した場合は火葬場で火葬する。」

 昭和初期の主な伝染病は、赤痢、腸チフス、ジフテリア、パラチフスなどでした。昭和6年度における日野町(人口5,726人)の伝染病患者は、疫痢3人(全員死亡)、ジフテリア1人(死亡)、チフス1人(全快)でした。この頃はまだ、病人が出てもすぐに医師に見せる者は少なく、病状が悪化して初めて医師の治療を受ければまだ良い方で、中には伝染病であることを隠して信神者などに頼む者もおり、このため伝染病などでは手遅れになって死亡する者が多い、とも書かれています。

 現代でも伝染病は恐ろしいものですが、正しい予防や治療で乗り越えたいものです。

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