みんなのふるさとこぼれ話35 日本人で最初のカイロプラクター森久保重太郎

このページの情報をツイッターでツイートできます
このページの情報をフェイスブックでシェアできます
このページの情報をラインでシェアできます

ページID1011712  更新日 令和7年12月10日

印刷 大きな文字で印刷

日本人で最初のカイロプラクター森久保重(しげ)太郎

明治20年4月15日、アメリカ洋行前(善太郎、重太郎、作蔵)の写真
明治20年4月15日、アメリカ洋行前(右から善太郎、重太郎、作蔵)

高幡出身の自由民権家森久保作蔵の末弟重太郎は、明治20年(1887)4月に渡米しました。前年12月には 自由民権運動の指導者石阪昌孝の長男公歴(まさつぐ)が、20年8月には、日野宿の有山彦吉と豊田村の山口清之助、25年には森久保作蔵の長男善太郎が渡米しています。善太郎は、スタンフォード大学(学位)とエール大学(修士)卒業後、明治42年に帰国しましたが、重太郎は生涯米国で暮らしました。しかしその道のりは決して易しいものではありませんでした。重太郎は、カリフォルニア大学バークレー校で神学(しんがく)と形而上学(けいじじょうがく)を学びましたが、キリスト教メソジスト監督教会に入信したことで家とは疎遠となり、同34年、ミネソタ州に移っています。その後、日露戦争で東洋の国日本が勝利したことで、米国で黄禍論(おうかろん)が加熱し、アジア人排斥(はいせき)運動も起こる中、彼は終生、日本人の文化や習慣、気質について講演し、現地での日本理解に努めました。

明治37年以降は治療師として活躍し、アメリカの手技療法であるオステオパシーやカイロプラクティック、磁気療法や電気治療など、統合的な医療分野で活躍しました。その後、米国人ミルドレッド・ルイスと結婚し、息子ブルースも生まれました。同43年ミネアポリスに移り、昭和8年(1933)、心臓病でこの世を去りました。遺骨は、ミネアポリスのレイクウッド墓地にある霊廟に葬られているということです。

広報ひの 令和元年(2019)6月1日号掲載

このページに関するお問い合わせ

教育部 郷土資料館
直通電話:042-592-0981
ファクス:042-594-1915
〒191-0042
東京都日野市程久保550
教育部郷土資料館へのお問い合わせは専用フォームをご利用ください。