土方歳三資料館
「入室伹清風」幕末に活躍していた旧幕府海軍中将の榎本武揚が、土方歳三をそう表現しました。わかりやすく言えば、カリスマ性が高くて、作戦会議に入る歳三が重い空気を晴らす風のような男だったということです。土方歳三資料館では、歳三がどうしてそんなに人気だったかよくわかってきました。
土方歳三資料館は歳三が子供のころに住んでいた家の跡地にあり、庭に歳三が植えた矢竹が元気に生い茂っています。実用的でありながらも美しい竹の横を通って、資料館に入ります。
入館すると、歳三が住んでいたころの土方家の模型が見られます。建物は建て替えられましたが、土方家の方々が今でもこの土地に住んで、家の一部を資料館として新選組の副長だった歳三の人生を物語るような資料を展示しています。
模型の奥の隅に、小さな小屋が一つ建っています。そこでは、昔土方家が石田散薬という薬を作っていました。
歳三が生まれた時には土方家がすでに長い間薬を作っていました。歳三も子供のころにその手伝いでこの箱を使って石田散薬を売りに行ったりしました。石田散薬は痛み止めのようなもので、打ち身やくじきを癒す効果があったとされています。石田散薬は粉の状態で販売されて、酒に溶かして飲まれました。
石田散薬を売るほかに、歳三は若いころに書道や俳句を学びました。庭に植えた矢竹のように、歳三の俳句は優れているだけではなくて、大事な意義もありました。
新選組の中に長男はいなかったってご存知でしたか?実は、長男は入れない決まりでした。その理由は、よく戦いに出ているためです。万が一隊士が命を落としたら、長男だった場合は家を継ぐ人がいなくなる可能性がありました。
土方家の六男だった歳三は逆に、家に一生帰らない覚悟で新選組に入りました。自分の思いや名を残すためにも、41の俳句が書かれた発句集を残しました。
死ぬ覚悟ができたといえ、歳三はそう簡単に命を落としたりする人ではありませんでした!歳三は場面に合わせて、違う鎖帷子を使いました。写真に写っているセットは、池田屋事件という血戦の時に使ったものです。
新選組は警察のような集団で、御所を燃やして天皇を拉致する計画を立っている反乱者が河原町の宿屋に隠れていると聞き、すぐに探しに行きました。歳三と近藤勇がそれぞれ隊士を数人率いて手分けして探し、その場所が池田屋だと突き止めました。そして、日本中の観光客が京都に集まっていた祇園祭の夜に、新選組が逮捕に抵抗した反乱者たちを派手にやっつけました。
その夜の出来事が「池田屋事件」として話題になって、新選組の名が全国に広まりました。
英語でよく最善の防御は適切な攻撃といいます。確かに、土方歳三資料館にある展示物の中で歳三が特に大切に持っていたものはこの和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)という日本刀でした。時代の流れでまげを切って洋服を着ても、銃を持っても、歳三は和泉守兼定を手放すことはありませんでした。
和泉守兼定は打刀という刀の種類で、長さは70.3センチです。歳三が練習用に振っていた122センチの木刀に比べたら、きっと使いやすかったです。それに、和泉守兼定はただの刀ではありません。会津藩の刀工によって作られたこの刀は、今は市指定の文化財とされ、国内外から新選組のファンを惹きつけています。
展示を見る機会があれば、和泉守兼定はどうやって日野市に来たか聞いてみてください。すごく感動的な話です!
アクセス
場所と行き方
- 東京都日野市石田2の1の3
- 多摩モノレールの万願寺駅から徒歩2分、または京王線の高幡不動駅から徒歩15分
開館時間
- 毎月第一・第三日曜日の12時から午後4時
期間限定展示
刃を保存するために、和泉守兼定は期間限定の展示になっています。展示情報は資料館のホームページ参照。
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