9松連禅寺之碑

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ページID1024964  更新日 令和5年10月2日

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松連禅寺之碑の写真
百草八幡神社境内にある「松連禅寺之碑」

 この碑は文政13年(1830)に松連寺八代住職魯庵によって建立されたもので、撰・書篆は小田原藩士岡田雄(岡田左大夫光雄、御番頭、右筆)によるものです。碑の高さ1.7m、台座を含めると2.7mの大きなものです。碑は山側にやや高くなる傾斜地に狭い平場をつくり、石を三段に積み上げています。 

 碑文によると、「この地に天平年中に道慈により建立された寺があり、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖の頼義・義家が奥州の前九年・後三年の役に際して祈願し、戦勝後、伽藍坊門(がらんぼうもん)を建てた。昔は五百石の祭田(さいでん)があったが、名前のみが残る。新田義貞が北条氏を討った分倍河原の戦で、寺は焼失したが、年を経て慶長年中に新たに庵を造り、海印(かいいん)を庵主とした。後に黄派瑞檗聖寺(おうばくはずいしょうじ)の末寺となり、光鑑(こうかん)を主僧、慧極(えごく)を中興開士とし、北宗(ほくしゅう)・無文(むもん)・悦門(えつもん・関捩(かんるい)・自穏(じおん)・祖門(そもん)・魯庵(ろあん)と8代続く。小田原城主六代大久保忠増の室、寿昌尼(じゅしょうに)は、慧極、北宗とともに慈岳山松連寺を建立した。寺宝には源義家の木像や軍器をはじめ、真慈悲寺と背銘のある阿弥陀仏など数ある。魯庵の頃には寺は衰微していたため、松連寺十八景を新たに作り、宝物を展観し昔の歴史を広く知らせた。この魯庵を当地の代官中村八大夫知剛(ともたけ)が助け、殿堂を修繕し、この碑の費も負担した」とある。(日野市解説文より)


 碑文からは、中世の真慈悲寺と江戸時代の松連寺の歴史が混在している部分も見受けられるが、当時の人々の考えがよくわかる資料である。

 

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