発掘調査最前線
近年、新たに掘り起こされた日野市の歴史を紹介します。
発掘調査最前線(2025年度)
古のリーダー達の墓?「方形周溝墓」
方形周溝墓は、周囲に方形の溝をめぐらせた盛り土の墓のことで、主に弥生時代から古墳時代前期に造られたものです。市内では、以前から平山遺跡にあたる平山橋のたもと、大名淵の周辺に残されていることが知られていましたが、新たに吹上遺跡が位置する川辺堀之内でも発見されました。発見された方形周溝墓は、全部で4基で、一辺が約8mほどの規模のものです。出土した遺物などから、弥生時代末から古墳時代初頭頃(約1600~1700年前)のものと考えらえます。
発掘調査最前線(2025年度)
縄文人の祈りの痕跡「石棒」
南広間地遺跡で発見されたこの石棒は、縄文時代後晩期(約2400~3200年前)のものです。石棒とは、棒状の磨製石器のことで、その形状から、男性器を模したものとされ、子孫繁栄や豊穣を祈願した呪術的な道具であったと考えられています。
発掘調査最前線(2025年度)
何を囲っていた?「大型区画溝」
平山遺跡の包蔵地内、西平山地区で発見された大型区画溝は、これまでの調査で東西南北の四方でそれぞれ一部分ずつ調査が行われています。溝が囲う範囲は東京ドーム約1個分程もある広大なものになります。出土した遺物などから、奈良~平安時代に造られたものと推測されています。今回発見された溝は、西側の溝の続きにあたります。この大型区画溝が、どのような目的でもって築かれたのかはまだよくわかっていませんが、一朝一夕で造れるものではなく、計画性をもった公共事業の一環であったことが推測されます。溝の内側の範囲で発見された大型四面廂建物跡をはじめとする建物跡群と合わせ、今後の展開にご期待ください。
スペシャルトピックス
大型四面廂(しめんびさし)建物跡
「大型四面廂建物跡」は、古代ではもっとも格式が高いとされる、建物の四面すべてに廂がついた建物の跡のことをいいます。全国的にみても希少な規模の建物跡であり、都内では国指定史跡に指定されている府中市の武蔵国府跡「国庁正殿」に次ぐ大きさを誇ります。なぜ、このような希少な建物跡がこの地に築かれたのか。出土遺物などから、9世紀の終わり頃、ちょうど古代律令体制が崩壊しはじめ、新たに中世の武家社会へと時代が変わる過渡期に建てられたことがわかっています。日野の新たな時代の幕開けに深くかかわる遺構であると考えられます。
発掘調査最前線(2024年度)
ここまでわかった日野の歴史
発見 縄文時代のムラの跡
平成30年度から令和元年度に七ツ塚遺跡(ナンバー1)で行われた調査では、13軒にのぼる縄文時代の住居跡やお墓、狩りで動物を落とす穴「陥穴(おとしあな)」が発見されました。七ツ塚遺跡では、過去の調査で100軒を超える住居跡が発見されており、縄文時代中期(5000年前)の大集落があったことがわかっています。今回の調査でも、祭祀などに使われたと思われる「有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器(どき)」などのたくさんの土器や石器、土偶などが出土し、縄文時代の人々のいきいきとした豊かな文化が明らかになりました。

発掘調査最前線(2024年度)
ここまでわかった日野の歴史
1100年の眠りから覚めた「古代人」の墓
日野市役所の東側で平成30年度に行われた神明上遺跡(ナンバー6)の調査では、平安時代にあたる9世紀後半頃(1100年前)の「古代人」のお墓が発見されました。このお墓は、当時としては非常に珍しい木棺墓(もっかんぼ)で、棺があったと推定される範囲から棺を組立てるのに使われた釘がたくさん見つかっています。また、棺の外側の足元付近には副葬品として納められたと思われる日本三大古窯(こよう)の一つ猿投(さなげ)窯産(ようさん)の緑釉(りょくゆう)陶器(とうき)も出土し、葬られた人の身分の高さがうかがえます。

発掘調査最前線(2024年度)
ここまでわかった日野の歴史
注目トピックス
かつての日野の中心地!?「四面廂建物跡(しめんびさしたてものあと)」
平成26年度から平成29年度にかけて、西平山土地区画整理事業に伴って平山遺跡(ナンバー22)で行われた調査で、大きな発見がありました。なんと、桁行5間、梁行2間の身舎(もや)(主要な柱に囲まれた家屋の中心部分)の四面に廂が付いた、桁行総長約20m、梁行総長約11mの非常に大きな「四面廂建物跡」が見つかったのです!!南北方向に長軸をもつ南北棟であるこの四面廂建物跡は、これだけの規模をもつとなると都内でも府中市に所在する古代武蔵国府跡の中心的な建物である、武蔵国衙(こくが)の「正殿」とされる建物跡以外には他に類をみず、全国的に見ても珍しいものです。出土した土器や周辺で見つかった他の建物跡の年代観などとも併せて、9世紀第4四半期頃(約1100年前)に建てられたものと考えられています。詳しい用途などはまだまだ研究途中ですが、武蔵国府の四面廂建物跡が古代武蔵国の行政府に付随する「官衙(かんが)的(=役所的)」な建物であったのに対し、平山遺跡で発見されたこの四面廂建物跡は、時期的にみてもその後の中世に向けて台頭しつつあった在地勢力に関連する建物なのではないかと推測されています。「夏草や兵どもが夢のあと」――畑の下から突如現れたかつての平山地域の隆盛の軌跡、今後も随時紹介をしていきます。


発掘調査最前線(2024年度)
ここまでわかった日野の歴史
中世の面影「薬研堀(やげんぼり)」
川辺堀之内地区で令和元年度に行われた川辺堀之内遺跡(ナンバー17)の調査では、長さ9.8m、幅1.48m、深さ1.24mの大きな区画溝が見つかりました。V字形の断面形状が薬剤を粉末状に磨り(すり)潰す道具「薬研」に似ていることから「薬研堀」と呼ばれるものです。中世頃から導入される形状の溝で、底面の幅の狭さや壁面の急傾斜などから防御性の高い構造といわれています。今回の調査でも、溝の中から中世期の擂鉢(すりばち)や甕(かめ)の破片が出土しています。調査地付近の崖上には中世城館址「川辺堀之内城」もあり、川辺堀之内地区の中世の風景が少し浮かび上がってきました。防御性の高い溝で一体何を囲っていたのかは気になるところですが、それは今後の研究にご期待ください!

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