みんなのふるさとこぼれ話39

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ページID1013467  更新日 令和4年5月19日

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みんなのふるさとこぼれ話39

たきびの詩人巽聖歌 「十代のころの文学活動」

巽聖歌が、二十歳の時に、北原白秋に認められて、児童雑誌『赤い鳥』で童謡詩人としての歩みをはじめたことは、よくご存じかと思います。しかし、それ以前、まだ本名の野村七蔵の時代の、十代の文学活動があったことは、あまり知られていないかもしれません。

大正6年(1917)、十二歳で尋常小学校を卒業すると、進学はせず、家業の鍛冶屋の手伝いをしました。しかし、文学、とりわけ童話や童謡への興味は深かったようで、『少年』という雑誌を愛読していました。『少年』『少女』は時事新報社が、明治36年(1903)に創刊した総合児童雑誌で、つづり方や詩、短歌などの投稿欄が充実していました。

十二歳の頃から投稿の常連だった聖歌は、大正10年6月号に投稿したつづり方が、二等賞になり、念願のメダルをもらうことができました。大正12年には、童話「山羊と善兵衛の死」という作品を投稿し、東京へ出て文学の勉強がしたいので『少年』の編集部で働きたいという依頼の手紙を出しました。

当時、編集長をしていた安倍季雄は、この作品を高く評価し、9月号に、投稿ではなく作家扱いで掲載してくれました。紆余曲折はありましたが、巽聖歌は上京し、『少年』の編集部で仕事をすることとなりました。

山形県鶴岡出身の安倍季雄(1880~1962)は童謡作家でもあり、実演童話家(地方へ出向いて、子どもたちに実際に作品を語って聞かせる活動)として活躍しました。関東大震災の影響もあって『少年』編集部での仕事は十カ月ほどで終わってしまいましたが、この間十編の童話を掲載しています。

安倍季雄との交流はその後も続き、物心両面で、聖歌の文学活動を支えてくれました。聖歌は、北原白秋を文学上の父とするなら、安倍は母のような存在だったと語っています。聖歌の資料の中には、この十代の頃の創作ノートや日記類が残されていますが、3月末に刊行される『巽聖歌資料集』1に、翻刻して掲載しますので、ぜひご覧ください。

広報ひの 令和2年2月15日号 掲載

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