会津の義、新選組の義

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ページID1011714  更新日 令和1年5月10日

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会津松平家第14代当主 松平保久さん

写真:会津松平家第14代当主松平保久氏

 会津松平家第14代当主の松平保久(もりひさ)さんは、幕末の会津藩主で京都守護職であった松平容保(かたもり)公のご子孫です。福島県会津若松市で毎年9月に開催される会津まつりの「会津藩公行列」では、松平容保公に扮して参加されています。

 松平容保公は、幕末の動乱期に近藤勇や土方歳三ら浪士組を会津藩お預かりとし、彼らに京都の治安維持を任せた人物。浪士組は後に「新選組」となり、池田屋事件などを経て、その名を全国にとどろかせました。

 土方歳三没後150年という節目にあたり、今年の「ひの新選組まつり」の新選組隊士パレードに松平容保公としてご登場いただく松平保久さんに、お話を伺いました。

 

会津松平家第14代当主 松平保久さん インタビュー

会津の方々、また松平保久さんから見て、新選組や土方歳三とはどのような存在でしょうか

 会津でも新選組というのは大変人気があります。今は本当にいろいろなメディアやツールを使うことができますので、歴女の方々や、土方歳三さんの熱狂的なファンの方も多くいらっしゃいます。会津と新選組の関係は切っても切れないものなのだという思いを、会津の皆さんは持っていらっしゃると思います。

 私が新選組について思うところを申しますと、ご承知の通り新選組というのは最初、清河八郎が将軍警護のためと、ある意味で少し偽って当時の浪士たちを京都へ連れて行った、というところから始まります。その中で、実の所はそうではなくて、君たちは尊王攘夷の行動を決起するのだ、みたいなことを聞かされて、当時の首脳陣、当時は芹沢鴨なんかもいましたけれども、「それは話が違う、自分達はあくまで将軍警護のために集まってきた者だ」というところから始まったわけです。

 そこからさまざまな出来事が起こっていくわけですけれども、会津藩にとって新選組というのは、とても重要な存在でした。当時の事ですから、藩として京都守護職の役割を果たそうとして藩兵を動かすというのは、中々事が大きくなってやりづらいわけです。最初は壬生浪士組だった新選組を会津藩お預かりという形で引き入れ、受け入れて、そしてさまざまな、時にはやや隠密な行動などもやってもらいました。このようなことから、会津にとっては、京都守護職を遂行する上において、新選組の存在がとても大きいものであった、と思っています。

 何よりも、やはり新選組がすごいと思うのは、そもそも将軍上洛に先駆けて、彼らはいわゆる佐幕派として京都へ行き、その義を最後まで貫き通したということです。

 極端なことを言えば、彼らは会津藩の正規兵ではありませんでしたから、あれだけ京都が混乱して、鳥羽伏見の戦いが起こった段階で、新選組は、そこから去ろうと思えば去ることもできたと思うのです。けれども多くの隊士、実際その後、新選組は少し分裂してしまいますけれども、多くの隊士達は、会津と共に東北へ向かい、そして戊辰戦争を戦う。そして土方さんは、本当に最後の最後、五稜郭まで行きました。新選組というのは当初の「将軍のため」というところから始まって、その終焉に至るまで、義を貫き通されたのでした。

 会津もまた、幕末において一番大切にしていたものは義でした。将軍家への忠誠ということもありますけれども、やはり会津にとって「武士(もののふ)の義」は何よりも重要なことでしたので、会津の義を思う心、新選組の義を信ずる心の、波長が合っていたのではないかと思うのです。でなければ、本当に、あのように苦しい戦に最後まで付き合う必要は、新選組としてはなかったわけですから。雇われた傭兵のようなところから最初は始まるわけですけれども、新選組は会津の義を感じ、そして会津も新選組の義に適った行動というものを感じ、結果は大変厳しいものになりましたけれども、会津にとって新選組は、運命を共にしていく、非常に特別な存在だったのではないかと、私は思います。

 

会津松平家第14代ご当主として昨年、戊辰150年を迎えられてのお気持ちはいかがでしょうか

 考えてみれば、戊辰200年の時には、私はもうこの世にはいません。かといって戊辰100年のときにはまだ15歳ですから、いわゆる当主として100年、150年というような大きな節目に巡り合うというのは、割と難しいことなのだと思いました。そのような意味では昨年、戊辰150年という節目の年を迎えられたことは、私にとっても大変に意味深いことですし、大きな出来事だったと感じています。

 昨年は、おかげさまでさまざまなイベントに参加させていただいたり、講演をさせていただいたりと、いろいろなことを通じて、改めて戊辰、幕末というものを、自分自身としても考え直す良いきっかけをいただいたと思っています。

 ここには2つの思いがありまして、「もう150年」という思いと「まだ150年」という、両方の思いです。でも実際は、「まだ150年」ぐらいというところなのでしょう。とある歴史学者の方からお話を伺った際に、「歴史というのは500年ほど経って、完全に、もう本棚の中にしまい込まれてからが『歴史』というのではないでしょうか」ということを仰られて、確かにそうだなと感じました。ですから150年なんていうのは、まだまだ生々しいのです。実際に、3代くらい前の方々の中には、明治だったり、幕末に生きておられたりという方がいたわけですから。

 京都ではよく、「前の戦争といえば応仁の乱だ」とおばあちゃんが言うと聞きますが、(戊辰も)そのくらいにならないと(歴史にならない)。150年ではまだまだ、ということですね。

 昨年、実は私、生まれて初めて薩長方と言いますか、長州の山口県にお邪魔しました。山口の方は大変温かく迎え入れてくださいましたけれども、それこそまだ150年なので、メディアなどには「会津と長州、積年の恨みが未だ続く」などと書かれたり、行政レベルで和解を申し込んだけれども会津側が断ったりとか、今でもいろいろあります。けれども実は私にとって、これらは些細なことなのです。

 先ほどの「500年経って初めて歴史となる」という視点から見れば、当時、国を2分して敵と味方に分かれてしまった会津、長州、薩摩の関係性の在り方というものも、これから長い時間をかけて、何かひとつの形が自然と醸成されていくものだろうと思っているのです。たとえ、山口の行政の市長さんと会津若松の市長さんが握手をして新聞の紙面を飾ったとしても、だからと言って「会津と長州の怨念が、これで晴れます」ということにはならないと思うのです。

 長州の方からは、会津のことをあまり知らないという方も結構いらっしゃるという話を伺いました。また、昨年もありましたが、やはりまだ150年ですから、私蔵されていた書簡などが何かのきっかけで出てくるということもあります。私にとって「戊辰150年」は、幕末当時の歴史というものを改めて皆で共有して、幕末、戊辰という時代を、原点に返って見直してみるきっかけとなりました。また、これまでご存知でなかった方にとっては、この150年間に日本国内で起きたさまざまな出来事について、興味を持っていただくきっかけになったのではないかと思います。

 話は少し変わりますが、会津会という組織が、京都、東京、宮城、むつ市(斗南)そして三浦半島、房総半島、北海道、などにも顕彰会があります。ご承知の通り、会津藩は消滅してしまいましたが、当時の会津藩士が辿った足跡というものは、意外と全国に残っているのです。もちろん新潟などにも残っています。

 東京の会津会は、元NHK解説委員で今やコメンテーターでご活躍の栁澤秀夫さんに会長をしていただいています。栁澤さんは、実は私とはNHKの同級生で、昔から非常に親しくさせていただいるのですが、いつも栁澤さんと飲んで話すことは、次の世代へどう繋げていくか、会津の歴史をどう繋げていくか、そのためにはやはり若い人に興味をもってもらうこと、これが我々の役目ですよねと、ということです。

 ありがたいことに、最近は20歳代、30歳代の方も会津会に入ってくださるようになりました。実は、会津会は会津出身でなければ入れないという決まりにはしておりませんので、それこそ土方ファンだったり、新選組ファンだったりという若い方もいらっしゃいます。それでも、もっとアピールしなければいけないと思っています。本やネットだけではなく、人と人が交流していくことで歴史は伝わっていくものだと思うので、こういう活動はこれからも一所懸命やっていきたいと思っています。

 私が小さいころの会津会というのは、怖いおじいさんばかりの会でした。会津会に入りたいという若い人がいても、「お前は何者だ!入りたかったらもっとちゃんと頭下げて来んね(来なさい)!」なんて言われた、という話も聞きました。ある意味閉鎖的で、その分、誇りもお持ちになっていたと思うのですけれども、やはり今はそれではだめです。「入りたかったらそっちから来い」ではなく入り口は常にオープンに、「会津の歴史を知りたかったら勝手に勉強しろ」ではなく若い人たちがアクセスしやすいように、と心掛けています。今回の土方没後150年のお祭りもそうですが、そういった(開かれた)空気を皆さんに感じていただくことが重要ではないかと思っています。

 全国には「大名系のご子孫の方々の会」みたいなものが数多くあるのですけれども、どこも高齢化が非常に進んでいます。他の大名系の方に、「会津は本当に今でも地元の方々や、全国の会津会など、活気があってよろしいですな」などとおっしゃっていただくことがあります。歴史とは、「ただ記録があればいいのだ」ということではなくて、常にその時代その時代に、能動的に伝えていくこと、例えばこちらでしたら日野の歴史や、土方はどういう人であったのか、というようなことをきちんと伝えていくことが、非常に重要だと思います。

 

土方歳三没後150年を迎え、市内各所に横断幕やのぼり旗を設置しています。日野市内の様子をご覧になり、いかがでしょうか

 数年ぶりに高幡不動にお邪魔したのですけれども、参道のところや駅を降りたところにも、大きな横断幕などがあったりして、「おお、やっているな」という感じがしました。特に良いのは、なんと言っても土方さんのビジュアル効果が強いことですね。今は女性ファンも大変多いと伺っておりますけれども、その土方さんの写真をモニュメントにしたフラッグなどのほか、ラッピングタクシーもお有りだとか。やはりイメージアップというのは大切だと思います。

 これは会津でもそうなのですけれども、市外から観光に来ていただくことも重要なのですが、もともと日野に住んでらっしゃる方々の中にも、「あ、そうなんだ。土方歳三って日野だったんだ」という方も結構いらっしゃると思うのです。そのような地元の方々に対するアピールという意味でも、とても良いと思います。

 先ほども申しましたように、「そんなことも知らんのか」というような態度は良くないと思うのです。「実はこうなんだよ」と伝えることで、日野市の歴史に興味を持っていただける、日野市の歴史を好きになっていただける方々が多くなれば、「日野市っていいまちだよね」という向きにもつながると思います。

 日本人は何と言っても、「○○年」というのが好きですから。150年というのは区切りの良い節目なので、ぜひ皆さんで、土方さんを盛り上げていただくと良いと思います。

 

ひの新選組まつりは、全国各地から多くの方にご来場、ご参加をいただいています。会津松平家ご当主から、皆さまへのメッセージをお願いします

 お招きいただいたこと、心より感謝を申し上げます。大変ありがたいことだと思っております。

 ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、会津には毎年9月に開催する「会津藩公行列」という大きなイベントがありまして、私も参加させていただいておりますが、そこには必ず日野市の新選組の隊にも参加していただいています。このようなことから、私の意識としては、新選組と会津というのは両者とも非常に近い存在だと思っています。今回の、ひの新選組まつりへの参加を非常に楽しみにしておりますし、これを機に、日野の皆さんには、ぜひ会津に興味を持っていただけると、とても嬉しく思います。

 会津会に入ってくださる若い方々もそうですが、「これまで歴史の事は知らなかったけれども、ゲームやコミックで知ったのをきっかけに自分なりに調べてみたら、興味深い出来事や、魅力的な人物がとても多かった」という方はとても多いです。(お越しになる皆さまには、今回のひの新選組まつりを)そういうことのきっかけにしていただくのもまた、良いのではないかと思います。

 ぜひ当日は、全国からお集まりの新選組ファンの皆さまに、お目にかかれることを楽しみにしております。

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