◎新春対談 日野町・七生村合併多摩動物公園開園50年 いま・むかし あけましておめでとうございます。皆さん新しい希望を胸に新年をお迎えのことと思います。 今年の市長新春対談では、日野町・七生村合併50周年を迎える今年、同じく開園50周年を迎える多摩動物公園の土居園長と矢島元 園長をお迎えし、当時の思い出話や今後の展望などを語っていただきました。 ■日本初のスタイル、多摩動物公園 市長 あけましておめでとうございます。 土居・矢島 おめでとうございます。 市長 今年は日野町・七生村合併50周年の節目にあたり、また多摩動物公園も開園50周年を迎えます。今回の対談は、多摩動物公 園の現園長さんと元園長さんをお招きし、創設当時の苦労話や今後の展望を語っていただこうと思います。まずは矢島元園長さんから 昔の動物園の話をしていただけますか。 矢島 その当時、動物園は一般的に鉄の柵で、動物と人間を分けている形式でした。しかし、多摩動物公園は無柵放養方式という堀や 水で動物と人間を区切った。日本初ですから。実に将来が楽しみだと思ったのが第一印象でした。  僕は昆虫が専門ですが初代の園長が昆虫園を企画し、日本の動物園にはなかった昆虫園がここに出来た。建設に向け一生懸命地道に 努力する職員たちがいてやっと結実した。もう一つ、ライオンバス。 市長 ライオンバスはヒットでしたね。 矢島 これも世界初のサファリ形式の施設として造られた。最初理解されない面もありましたけれど、これを造ったのも多摩動物公園 の特徴の一つ。 市長 人気が出ましたね。 矢島 アジア園とアフリカ園、昆虫園、ライオンバス…。これらがこの動物園の骨格になっていると思います。  また、この動物園は広大な緑を持っていて、こんな緑は他にないです。上流の奥多摩にはありますよ、しかし多摩川の河口までの間 に、これだけの緑地はない。この財産は大変なものです。 ■動物もよければ 人間も心地良い  市長 確かにそうです。動物園ができたおかげで丘陵の緑が残った、わが市にとって大きな財産ですね。  現園長の土居さんは、この動物園にどういう認識で来られ、また、この動物園をどのように運営しているのか、そのあたりを聞かせ ていただけますか。 土居 今まで都の環境局で小笠原の自然保護の仕事などをやってきました。その時から、ここが自然公園の区域になっていることを知 っていました。いろいろな動物園がありますが、この動物園は日本の原風景、故郷の風景みたいな名残を持っていて心地良い感じがし ます。作られたものではなく、何か自然なイメージがあります。  もう一つは、いまの動物園は、単に動物を見せるだけでなく、自然保護、つまり動物の保全をどうしていくかが評価されます。檻の 中に動物を閉じ込めるのではなく、なるべく自然に近い状態で見せる。同時に繁殖をさせる。  動物が、心地良くて、良い環境だというところを作っていかないと繁殖はしません。例えばゾウ、昔は1頭とか2頭で飼っていまし たが、今はグループで飼うのが流れで、そうしないと繁殖しない。  またこの動物園は、昆虫を含めた動物の生態を見せている。 市長 生態を見せる…。 土居 絶滅の危機にある動物を世界中の動物園が協力して、繁殖させて、自然界に戻すこともやっているんですよ。だからそういう動 物園の位置づけも極めて重要だと思います。 市長 価値がありますね。お客様に見せながらそういう研究もやっている。 土居 だからそういう点は、お客様に理解いただき応援してもらわなくてはいけないんですよ。 ■七生のみんなが強い思いで誘致に動いた 市長 何よりも環境という面で考えると、お二人のお話のように、動物に良い環境、それは結局、人にも良い環境になるわけで、むし ろ行政の先駆け的なことが動物園を通じて行われていたのではないかと感じました。  それでは、矢島元園長さん、50年前突然このように大きな動物園が出来た訳ですが、地元の方々との何か思い出がありますか。 矢島 当時の七生村の人たちが一丸となって誘致の努力をした。そして京王帝都電鉄(現京王電鉄)との連携を持ち、正門前まで鉄道 を引いたでしょう。  昭和39年、地元をまとめ鉄道を引いたのは、そう簡単にできることじゃない。  ライオンバスが走り、昆虫園がオープンし、鉄道が開通した。高幡不動尊をはじめ、地元の方と都の施設が一体化し、多摩の歴史に 新しい礎を築いたと思いました。 市長 最近ようやく、市でも動物園という素晴らしい素材が我々のまちにあるのではないか。もう少し連携して、仕事が出来ないかと 考えています。あるいは市民とともにこの場所を使わせてもらえないだろうかと。住民あるいは行政と園とがタイアップして、新しい ことが発信できるのではないかと考えています。  私は、当時の七生村と日野町の違いを常々感じているので少しお話させていただきます。  七生村は、山の間のわずかな平地に人が住んでいた所で、お不動さんを中心に安らぎの施設が元々ありました。平山にはゴルフ場や 鮫陵源(注)という遊園地のようなところまで。百草園も含めそういう流れの中に動物園が誘致されたのかと思うのです。  一方、日野町は、産業、工場を呼んだ。ちょうど、浅川を挟んで、その二つの地域が合わさって、今の日野市ができているという感 じですね。憩いの地域・七生村の一番素晴らしい施設がここだなと。この動物園を核にして、未来に向け自然に親しむ空間をもっと広 げていく必要が我々行政にはあるのかなと思っています。 ■子どもの動物園から大人の動物園へ 土居 動物園でなくても、野鳥を見ようと思えば、この周りでも見られます。今度「日本野鳥の会」と連携して、動物園から外に出て 、何か催しをしてもいいかなと思っています。  あと、動物園からの出前市民講座。  地元と動物園がある場所だから出来るプログラムがあると思います。  だから、そういう意味ではもう少しアピールしていくことを考えなくてはいけないと思っていて。これからは子どもの動物園から、 大人の動物園にもしなくてはいけないとも思っています。 市長 動物園がここにあるおかげで、都道の整備が出来たし、モノレールも。町の活性化、発展の意味でも随分大きな力をいただいて います。また、先ほどお話があった、子どもさんの数が全国的には減ってくる。これからは子どもさんだけでなく、おじいちゃん、お ばあちゃんなども楽しめるようにする。市の健康行政とか高齢福祉行政とタイアップして、健康面で動物園を活用できるのではないか と思っています。 矢島 昭和35年から毎年サマースクールをやっているのですが、やはりこの周りの人でないと来られない。  市民が多くて。だんだん広まっていって、来ていた人が親になり、またその子どもが来てくれる。 土居 サマースクールはすごい歴史があります。学校教育にずっと力を入れています。でも残念ですが、大人になると足が遠のくので す。さっき申し上げた市民講座のようなものとか。来てもらいやすい動物園を作らないと。 ■動物園の見せ方にもうひと工夫を 市長 お年寄りが親しめるように園内バスが出来ましたね。 土居 はい。そうですね。それと今、考えているのは園内マップ、ここを歩けば何カロリー消費するか分かる。  ただ歩くのではつまらないけど、動物がいればね。 矢島 上り坂あり、下り坂ありね。 市長 迷うこともないし。 矢島 まあ、50年の間にはいろいろありました。でも、胸をはってうちの動物園をご覧くださいって言える状況になって、さらに、 園長が見せ方にもう一工夫の取り組みをしている。  でも、やはりこれをサポートするのは市民です。だから市民とのパイプ。いろいろなかたちで、この動物園を使ってもらう。せっか く、これだけの施設があるのだから。そういう意味で未来に向けて交流を深められればいいと思います。  あと地球環境問題。これも無縁ではありません。 市長 そのとおりですね。動物が生きにくい世の中っていうのは、結局人も生きにくくなるわけですから。動物がどんどん繁殖してい く環境であれば、その環境は、人にとっても良いわけですからね。  今、空から見ますとね、動物園の周りがほとんど宅地になっています。  矢島 宅地ですね。 ■日野市が持っている可能性これはすごく大きい 市長 この動物園だけが見事に緑が残っていまして。航空写真を見ると一番よく分かります。この緑を保つ、いやだんだん増やしてい くことも必要ではないかと思っています。  あと、この50周年を契機に、当初の動物園の誘致に中心となったお不動さんや京王さん、また、多摩テックさんらが連携してお客 様に周遊してもらう、そういう仕掛けができればと思っています。 土居 そうですね、動物園でも多摩テックさんなどと話しています。 市長 このあたりまで一緒にいらっしゃいと。おじいちゃん、おばあちゃんはこちらの施設へ。若い人はあちらの施設へとかね。子ど もはここの施設にとか…。いろいろな仕掛けができますね。  その辺のところができれば、本当に組織の枠を超えて、一緒に何かプロジェクトチームを作って、垣根を外してね。それぞれがアイ デアを出し合いましょうとね。 矢島 現在、群馬の職場に通っていますが、日野はうらやましいなって思います。何と言っても首都圏で、新宿から40分で来られる わけですよ。 市長 これは強みですね。 矢島 地方とは全然スタンスが違います。年間100万人の来園者があるっていうのは、地方では難しい。 市長 そうですね。だから環境の良さを保つぎりぎりと、多くの人が住んでいる首都圏から来られるぎりぎりと…。 矢島 そうですね。これだけの緑を享受できるっていうのはね、大変な利益だと思います。  多摩動物公園を離れてみて、日野が持っている能力、可能性、これはすごく大きなものがあると感じました。 市長 あるときまでは、日野だけが、開発が遅れて…。繁華街もできないし、一番遅れた行政体ではないかという時もありました。で も、最近逆転してきて、むしろ遅れてかえって、自然とか川とか残された。これからの時代は、自然が大きな財産になっていて、それ を教えてくれているのがこの動物園の存在かなと思います。 矢島 緑地が保全できて、簡単に来られて。だから地球環境問題で何かしようと言えばできるところでね。立地条件としては揃ってい ますよ。 ■キリンに見られてごらんなさい 市長 立地条件の良さね。それは感じますね。では、高齢者と動物園の関係でお話したいのですが、高齢者を引きつけるための取り組 みというものはありますか? 土居 老人会でこの前講演させていただきましたが動物の面白さって、じっと見ていることで分かることがあるんですよ。例えば、ず っと見ているとキリンもね、全部模様が違うから。みんな違うんですよ。個性もあるし…。 市長 それはいい話ですね。高齢者の方もこういう楽しみ方ができますよということですね。 矢島 不思議なことは、動物を見に来たはずの人は立ち止まらないんですよ。「あ、キリンだわ」って歩きながら見ている。黙って1 0分立ってキリンに見られてごらんなさいと思っています。 市長 そうか。止まって動物から見られましょうって。 矢島 止まったら向こうも見ていますよ。変な人が来たなと。だけどこっちが10分見ているとキリンがよく見えてくるんですよ。ま つ毛が長い、鼻が閉じたり開いたりしている、そういうところをね。  だから10分見ていれば絶対分かる。あなたは、動物を見に来たんだろうけど、動物もあなたを見てるんですよ。 市長 ははは…。高齢者には最高の見方だ。疲れないし。 矢島 そうなんですよ。動物園で、みんな「動物見たわ」って言ってるけど実は殆ど気づいていないんですよね。 市長 そうですか。 土居 そうですよ。誰もいないとき、キリンのところで歌を歌っていると、キリンって音に敏感でね。ずっとこちらに集中しているん ですよ。キリンが聞いているって思ってね。 市長 いいですね。いろんな楽しみ方があって。 矢島 動物園に行ったら一日で全部見なくていい。今日はキリンを見ると決めれば、キリンは何も言わないけどいろんなことを教えて くれます。子どもにも、お年寄りにもね。 土居 今度ね、園内にアジサイを植えようかと言っているんですよ。梅雨の時期、違う楽しみもあっていいかなと。ここは珍しい野草 なども見ることができる。注意深く見ていると結構楽しめるし、野生動物がたくさん生息していますよ。 市長 鳥がたくさんいますね。 土居 ぜひ、それぞれに合わせた動物園の楽しみ方をして欲しいですね。 市長 幅広い人たちにね。土居園長さん、矢島元園長さん、本日はありがとうございました。また、今後も折に触れて、動物園を通じ 、我がまちのことについていろいろなご指導ご協力をいただければありがたいと思います。 土居・矢島 ありがとうございました。 (注)鮫陵源(こうりょうげん)  アメリカ帰りの実業家鮫島亀之助が、現在の平山住宅(東平山)がある場所に昭和11年に開園した遊興施設。魚の養殖池、釣り堀 、料亭、子ども向けの遊園地などがありました。近隣の小学生の遠足先として賑わっていましたが、それ以外の施設は料金が高いこと もあって、地元の人や庶民には縁の薄い施設でした。昭和16年に鮫島亀之助が急死したことや戦争の激化などにより、昭和18年に 閉園しました。 □プロフィール 土居利光(どい・としみつ)  昭和26年東京都生まれ。千葉大学卒。昭和50年東京都庁入庁。首都整備局、住宅局、環境局などで都市計画や生態系保全などを 担当。平成17年から現職。 矢島稔(やじま・みのる)  昭和5年東京都生まれ。東京学芸大学卒。昭和36年から多摩動物公園勤務。昭和62年から平成2年まで同園園長。平成17年か ら県立ぐんま昆虫の森(桐生市)園長。NHKラジオ「子ども電話科学相談」の回答者としても活躍。 □日野町と七生村合併までの道のり  昭和28年10月に施行された「町村合併促進法」によって、日野町・七生村は共に八王子市への編入を東京都から勧告され、八王 子市長からも編入合併の申し入れを受けていました。これに対して日野町では、昭和30年3月5日付の「日野町広報」で日野町の人 口は2万人で、合併促進法の対象となっていないこと、合併は、日野町民の負担が重くなる見通しであるなどの理由をあげ反対しまし た。同時に七生村においても八王子市への合併には、不賛成の答弁を東京都に行いました。  その一方で、昭和29年9月に、七生村から日野町に対して両町村合併の申入れが行われ、昭和30年3月には、「日野町・七生村 町村合併促進協議会」を設置し、「新町建設5ヵ年計画案」を策定して合併条件等の協議を続けました。  両町村はあくまでも日野・七生の合併を目指して検討を重ね、日野町・七生の合併を目指して検討を重ね、日野町・七生村は昭和3 3年2月1日に合併し、新日野町が誕生しました。同年10月18日からは、日の町合併祝賀会が一小で盛大に挙行され、小学生の旗 行列や町民の提灯行列なども行われました。  両町村の合併は、多摩平団地の建設や京王線沿線の宅地開発などと相まって、新日野町の発展に大きな展望を与えることとなりまし た。