日野市立病院改革プラン(経営健全化計画)を策定しました 市立病院では、地域の中核病院としての役割の充実と持続的な経営健全化を図るため、平成20年度を初年度とする5カ年の 日野市立病院改革プラン(経営健全化計画)を策定しました。 この改革プランは、現在の健全化計画を見直し、平成19年12月に総務省が策定した「公立病院ガイドライン」を踏まえ、改革の 項目、目標数値などを取り込んだものです。 今後は、このプランに基づき、具体的措置を実施し、その点検、評価、見直しなど、適切な進行管理を行っていきます。 今号では、プランの概要をお知らせします。なお、このプランは市立病院3階総務課、市内各図書館、市立病院ホームページで ご覧になれます。(市立病院電話:581・2677) 1 改革プランの概要 市民に選ばれ、信頼される病院を目指すため、次の項目を検討し、改革プランとしました。 ・病院運営の基本方針 ・財政支援のための一般会計負担の考え方 ・経営改善の具体的措置(医師および看護師の人材確保、医療職のスキルアップにつなげる体制の構築、市民の健康を守る(仮称) 健康増進センターの併設など) ・病院の再編・ネットワーク化の検討、経営形態の見直し ・収支計画、経営目標および目標数値(平成21年度現金ベースでの黒字化、平成22年度経常収支の黒字化、病院および診療科 別の目標数値の設定) ・点検・評価、進行管理(庁内委員会および市民委員会の設置) 2 病院運営の基本方針と主要な取り組み (1)地域の中核病院としての役割を果たします (2)地域医療連携の推進・拡充 (3)二次救急体制の確立 (4)小児科のチーム医療による体制の構築 (5)(仮称)健康増進センターの併設 (6)市立病院を支援する市民の自発的な応援団の発足 3 医師確保の方針と目標数値 (1)慶応義塾大学医学部の関連病院として、同大学医学部を中心に、医師の確保を左表のように計画します (2)経営指標および目標数値 (1)医師確保計画 [平成20年度]医師確保数:39人 [平成21年度]医師確保数:50人 [平成22年度]医師確保数:51人 [平成23年度]医師確保数:52人 [平成24年度]医師確保数:52人 (2)経営指標および目標数値 指標内容:経常収支比率 [平成20年度]92.4% [平成21年度]98.4% [平成22年度]100.5% [平成23年度]101.3% [平成24年度]103.0% [公立病院改革プラン目標数値(22年度)]99.1% 指標内容:医業収支比率 [平成20年度]87.2% [平成21年度]92.8% [平成22年度]94.9% [平成23年度]95.6% [平成24年度]97.3% [公立病院改革プラン目標数値(22年度)]93.3% 指標内容:給与費対医業収益比率 [平成20年度]42.9% [平成21年度]40.6% [平成22年度]39.7% [平成23年度]39.8% [平成24年度]39.4% [公立病院改革プラン目標数値(22年度)]53.6% 指標内容:材料費対医業収益比率 [平成20年度]28.0% [平成21年度]27.7% [平成22年度]27.1% [平成23年度]26.5% [平成24年度]25.7% [公立病院改革プラン目標数値(22年度)]28.8% 指標内容:病床利用率 [平成20年度]71.3% [平成21年度]81.5% [平成22年度]84.0% [平成23年度]85.9% [平成24年度]88.4% [公立病院改革プラン目標数値(22年度)]81.1% 4 経営形態の見直し 経営改善の状況を検証しつつ、地方公営企業法の全部適用、地方独立行政法人化、指定管理者制度の導入などについて、 平成21年度から準備検討し、平成24年度までに必要な措置を図ります。 日野の歴史と民俗 118 ほどくぼ小僧・勝五郎生まれ変わり物語(4) 文人大名池田冠山 隅田川の下流、佃島の対岸にそびえる高層ビル聖路加ガーデンのある辺りは、かつて鉄炮洲と呼ばれ、鳥取藩の支藩西館の池田家 上屋敷があったところです。 安永2年(1773)、ここの当主となったのは、旗本池田半蔵政勝の次男で、その聡明さを見込まれわずか7歳で養子となった池田 冠山(松平縫殿頭(ぬいどののかみ)定常)でした。冠山は子どもの頃から地誌や歴史に興味をいだき、後に好学の大名として 知られ、江戸城内での詰所が同じ柳間である大名、毛利高標(たかすえ)・市橋長昭とともに柳間詰の三学者と称せられたほどでした。 冠山は、享和元年(1801)35歳で家督を長子定興に譲り自由の身となると、江戸の町を廻り、また種々の文献を集めて地誌 『武蔵名所考』を完成させ、これは後に編さんされる『新編武蔵風土記稿』の基礎になったもので、多摩地域では八王子千人同心の 植田孟縉(もうしん)(『武蔵名勝図会』の著者)や塩野適斎(『桑都日記』の著者)などがこの編さんに携わることになります。 愛娘露姫の夭折と勝五郎 冠山は八男一六女という多くの子どもに恵まれましたが、その末娘は冠山が51歳のとき側室おたえの方との間に生まれた大変 愛らしい露姫という姫君でした。冠山はこの露姫を大変可愛がり、淺草寺など馴染みの寺院に行く時にはよく一緒につれていった ものでした。また、当時流行した「カンカン踊り」を踊る露姫の愛らしい姿が、冠山の手紙の中に残っています。 しかし文政5年(1822)11月27日、露姫は突然疱瘡のためわずか6歳で亡くなってしまいます。悲しみにくれる冠山の耳に 届いたのは、「ほどくぼ小僧」と呼ばれる中野村(八王子市)の勝五郎の生まれ変わりの話でした。冠山は遠い道のりも厭わず 中野村の勝五郎を訪ね、祖母つやから一部始終を聞いて、この話を『勝五郎再生前生話』という一冊の本にまとめました。この 冊子は冠山の親しい友人が読み回したり、写し取ったりしたため、やがて勝五郎の話は、中野村を知行する旗本多門伝八郎や国学者 平田篤胤(あつたね)など多くの人々の知ることになりました。 露姫の遺墨と追悼集 露姫が亡くなって1カ月ほどたち、遺品を整理していると、中から何通かの書付が見つかりました。そこにはすでに死を悟った 周りの人々への惜別の歌や言葉が認めてありました。冠山宛には「おいとたから こしゅ(ご酒)あがるな つゆがおねかい 申ます めてたくかしく おとうさま まつたいらつゆ 上あけるつゆ」と冠山の体を気遣う言葉が残され、冠山はこれを読んだ 後は、二度と酒を口にすることはありませんでした。 やがて冠山はこれらの筆跡をそのまま刷物にし、「浄観院殿玉露如泡大童女」という露姫の戒名を添えて全国の寺院や友人に配ると ともに、露姫への追悼の詩歌や書画を求めました。冠山の元へは松平定信・林大学頭・瀧沢馬琴・谷文晁などよく知られている 人々の他に、池田家に出入りする職人や商人など1千600点あまりの追悼が寄せられました。冠山はこれらを追悼集として 30巻の巻物に仕立て、生前露姫がよく参詣に訪れた淺草寺に納めました。淺草寺には現在も29巻の追悼集と露姫の木彫像が 残されています。 (郷土資料館 鈴木淳世) ▲『玉露童女行状』より露姫肖像 鳥取県立図書館所蔵