みんなのふるさとこぼれ話74 昭和20年4月4日の空襲

このページの情報をツイッターでツイートできます
このページの情報をフェイスブックでシェアできます
このページの情報をラインでシェアできます

ページID1025977  更新日 令和6年4月23日

印刷 大きな文字で印刷

東町の延命地蔵堂の写真
東町の延命地蔵堂

第二次世界大戦が終わって、今年で79年です。戦時下の日野にも様々な影響がありましたが、品川区や港区の疎開学童を受け入れるなど、焼け野原になった都内に比べれば、比較的おだやかな日々であったと思われます。

そんな日野にも数回の空襲がありました。特に昭和20年(1945)4月4日の空襲は最大規模のもので、30人あまりの死者が出ました。

空襲は、4月4日の午前1時ごろから始まり、上田・宮・下河原(したがわら)・東町(あずまちょう)地区にかけての地域に被害がありました。3回の爆撃後、少し時間をおいて最後の大きな爆撃があったそうです。

下河原地区では、旧甲州街道沿いの8軒、日野警察所周辺の5軒が焼失し、子どもを含む12人が亡くなりました。

現在の立日橋付近の東町地区では、鮎料理屋として有名だった玉川亭の2階が吹き飛ばされたりして7軒が焼失、13名が亡くなりました。3回の爆撃後、最後の爆撃までの間に少し時間があったため、もう空襲は終わったと思った人たちが、負傷者の救助や後片付け、見まわりなどで防空壕から出ていたところに最後の爆撃があり、被害が大きくなりました。日野桑園から救助に駆けつけていた兵士2名も亡くなっています。

このほか、上田地区で2名、旧家の長屋門を直撃した宮地区で1名が亡くなっていますが、これは4回目の爆撃によるもののようです。宮では、長屋門横の牛小屋も焼失し、牛1頭、豚5~6頭、鶏なども死んだそうです。

特に攻撃目標がないこの地区でなぜ空襲があったのかは謎ですが、『東京都戦災史』(昭和28年)によると、4月4日未明から明け方にかけて、京浜地区の広い地域に空襲があり、立川市富士見町の山中坂では、防空壕に直撃弾が落ち、中にいた子どもたち40人余が窒息死するという悲劇が起きています。浅川を通過した爆撃機が、多摩川と見誤って爆撃を開始したのではないかとも言われていますが、真相は不明です。

東町地区では、昭和21年犠牲者の慰霊のための地蔵堂(延命地蔵)が建立され、現在も供養が続けられています。

地蔵堂は区画整理のため、平成15年ニューロシティマンションの南西角に移転。焼失家屋や死亡人数などは、聞き書きを元にしているので諸説があります。負傷者や損害を受けた家屋数などもはっきりしません。詳細は日野の昭和史を綴る会編『聞き書き日野の昭和史を綴る』(1994年)をご覧下さい。

広報ひの 令和6年(2024)5月号 掲載

このページに関するお問い合わせ

教育部 郷土資料館
直通電話:042-592-0981
ファクス:042-594-1915
〒191-0042
東京都日野市程久保550
教育部郷土資料館へのお問い合わせは専用フォームをご利用ください。